西鉄ライオンズ略年表 |
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1949年 |
西鉄クリッパース結成、2リーグ分裂後のパ・リーグに加盟(11月)。 |
1951年1月 |
西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併しパ・リーグに加盟、西鉄ライオンズ誕生。 |
1952年 |
中西太が入団、シーズン途中に大下弘が東急から交換トレードで西鉄入り。
野口正明が最多勝利投手、中西太が新人王。 |
1953年 |
豊田泰光、高倉照幸、河村久文、西村貞朗入団。川崎徳次が最優秀防御率・最多勝利投手、中西太が本塁打王・打点王、豊田泰光が新人王。 |
1954年 |
仰木彬、滝内弥瑞生ら入団。島原キャンプ開始。平和台球場で初ナイター(6月2日)。初のリーグ優勝(10月19日決定)。西村貞朗が最優秀投手(勝率1位)、中西太が本塁打王、大下弘が最高殊勲選手。日本選手権は中日に3勝4敗で敗退。 |
1955年 |
和田博実、若生忠男、玉造陽二、田中久寿男ら入団。中西太が首位打者・本塁打王、河村久文が最多奪三振。90勝50敗4分も首位南海に大差の2位。 |
1956年 |
稲尾和久、畑隆幸ら入団。南海を3厘差で逆転し2度目のリーグ優勝。日本選手権では4勝2敗で巨人を破り初の日本一となる。中西太が最優秀選手・打点王・本塁打王、豊田泰光が首位打者、島原幸雄が最高勝率(最優秀投手)、稲尾和久が最優秀防御率・新人王。 |
1957年 |
城戸則文、小渕泰輔ら入団。7月以降14連勝するなど独走でリーグ連覇、日本選手権でも4勝1分で巨人を破り連続日本一となる。稲尾和久が日本記録の20連勝を達成、投手三部門(防御率・勝率・最多勝)を独占し最高殊勲選手。中西太が打点王、打撃十傑に5人(中西太、大下弘、関口清治、豊田泰光、高倉照幸)。 |
1958年 |
新設の小倉球場で開幕戦(4月5日)、改装された平和台球場での初戦(4月26日)を経て前半戦で故障者が続出し、首位南海に10ゲーム以上を離されるも8月以降に驚異の追い上げで厘差の逆転リーグ3連覇。日本選手権では3連敗後に稲尾和久の大活躍で奇跡の4連勝、三連覇を達成した。西村貞朗が東映戦(7月19日)で完全試合達成、稲尾和久が二年連続の最高殊勲選手・防御率1位・最多勝利、中西太が首位打者・本塁打王。 |
1959年 |
故障者続出に加え公式戦終了後に大下弘の引退、三原脩監督の退団が続くなど、4位と低迷。稲尾和久が3年連続30勝。室内練習場を備えた百道寮が完成(9月)、川崎徳次コーチが後任監督に就任(11月)。
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1960年 |
川崎新監督のもと、20勝の稲尾和久、打率9位の豊田泰光を中心に3位に入るも優勝争いには最後まで絡めず。小渕泰輔がサイクルヒット達成(8月6日)。
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1961年 |
中西太が二リーグ分裂後入団初の200号本塁打(4月22日)。初の沖縄での公式戦(対東映戦・5月20日)。稲尾和久が日本タイ記録となる42勝をあげるなど、チームは81勝をあげるも3位。稲尾は防御率1位・最多勝利・勝率の投手三冠・最多奪三振も獲得。オフに川崎徳次監督がフロント入りし中西太新監督が就任(11月)。 |
1962年 |
中西青年監督のもと奮闘するも3位。稲尾和久が最速200勝達成(8月25日)。オフに豊田泰光が国鉄へ移籍。
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1963年 |
前半戦で14.5ゲーム差を離されるも、ロイ、バーマ、ウィルソンの3外国人の活躍もあり、近鉄との最終4連戦に4連勝して「奇跡」の逆転優勝。日本選手権では巨人に3勝4敗で敗退し、これが最後のリーグ優勝となった。稲尾和久が8年連続20勝・最多勝利投手、田中勉が勝率1位。
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1964年 |
井上善夫ノーヒットノーラン達成(5月16日)。西亦次郎社長がパ・リーグのオーナー会議で、抽選で新人獲得球団を決める「新人プール方式」を提案(のちのドラフト制度)。
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1965年 |
小倉球場で初ナイター(4月24日)。故障明けの稲尾和久が13勝、池永正明が新人王。 |
1966年 |
田中勉が完全試合(5月12日)、清俊彦がノーヒットノーラン(6月12日)、稲尾が通算250勝を達成し防御率1位となるなどチームも2位となる。
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1967 年 |
若生忠男がノーヒットノーラン(9月17日)、池永正明が23勝で最多勝利のタイトルを獲得するなどで、前年に続く2位となる。 |
1968 年 |
和田博実のサイクルヒット(5月28日)、中西太の通算13本目の代打本塁打、稲尾和久が通算2500奪三振を獲得するなど往年の選手の活躍あるも5位。
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1969 年 |
シーズン終了間際の10月、永易将之投手の野球賭博関与が発覚し球団は二軍降格と謹慎を発表(黒い霧事件始まる)。チームは5位と低迷、中西太監督の現役引退と監督退任し(10月22日)、稲尾和久新監督が就任(11月4日)。 |
1970 年 |
稲尾監督のもと、関口清治ヘッドコーチ、河村久文投手コーチら西鉄黄金期のメンバーがサポートし東尾修ら若手の台頭あるも、黒い霧事件による主力投手の永久追放が響き球団初の最下位と低迷。 |
1971 年 |
年間通じて戦力の台頭少なく2年連続の最下位(38勝)。 |
1972 年 |
東尾修が18勝(25敗)、加藤初が17勝で新人王を獲得するなど若手の台頭あるも、公式戦終了後の10月28日に西鉄は球団経営権を譲渡。11月18日に「さよなら西鉄ライオンズ」として平和台球場でオープン戦が開催され、5対1で勝利。西鉄ライオンズのユニフォーム姿が披露された。 |