春日原球場で開催された西鉄軍披露第一戦を伝える新聞記事。
「福岡日日新聞1943(昭和18)年2月22日」記事より

 
 戦時下の昭和17年9月、福岡県の私鉄5社が合併して誕生した西日本鉄道の社長・村上巧児は、同年11月にプロ野球「大洋軍(大洋野球倶楽部)」を買収、チーム名を「西鉄軍(西鉄産業軍・西鉄野球倶楽部)」とした。同年2月20日から西鉄大牟田線沿線の春日原球場で活動を開始し、21日に改名披露第一戦を開催。石本秀一を監督に迎え、濃人渉、近藤貞雄、25勝をあげた野口二郎投手、アンダースローの元祖と言われた重松道雄投手らを擁して秋季リーグでは優勝を飾るも、戦況の悪化で翌年は選手確保もままならず、僅か一年で解散した。公式戦は甲子園、西宮、後楽園の3球場を中心に行われ、九州での試合はなかった。縁は巡り、石本は西鉄ライオンズで投手コーチとして、重松は二軍監督として、ともにチームを支えることとなる。

執筆・文責:益田啓一郎

 


第19回都市対抗野球大会優勝の記念写真 
所蔵:西日本鉄道(株)山本魚睡コレクション

 
 1943(昭和18)年に「西鉄軍」を保有していた西日本鉄道は戦後、日本野球連盟に復帰願いを出すが、連盟が活動を停止した1944(昭和19)年まで存続していなかったことを理由に復帰を認められなかった。そのため、西日本鉄道は1946(昭和21)年6月にノンプロ西鉄チームを結成し、社会人野球の大会へ参加。
 1948(昭和23)年8月、第19回都市対抗野球大会に初出場した西鉄は宮崎要監督兼二塁手以下、武末悉昌投手、上野義秋一塁手・深見安博三塁手・大崎憲司右翼手・塚本悦郎中堅手・伴勇資捕手ら、のちに西鉄クリッパース、西鉄ライオンズで活躍する選手らを擁して決勝まで勝ち進む。
 決勝はのちにプロ入りし活躍する「火の玉投手」荒巻淳、西本幸雄、今久留主淳らを擁する別府星野組と対戦し、荒巻の故障という幸運も味方して初参加で初優勝という快挙を成し遂げた。このチームを母体にして、1950(昭和25)年の2リーグ分裂時に西鉄クリッパースとしてパ・リーグに加盟するのである。
 ノンプロチームは西鉄社内外から新たに選手を集めて活動継続をめざすが、主力の抜けた穴は埋められず同年4月に解散。西鉄社員(電車車掌)から補充でチームに参加し、チーム解散を経てから三原脩監督に見出され西鉄ライオンズの正一塁手となったのが河野昭修である。

執筆・文責:益田啓一郎

 
 
 
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