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前年の初リーグ優勝で自信を得た野武士軍団は、翌1955(昭和30)年のシーズンも90勝をあげる。しかし宿敵・南海ホークスはそれを上回る99勝、屈辱のゲーム差で2位に甘んじる。
戦後10年を経て日本は新しい時代を迎えつつあった。「もはや戦後ではない」と言われ、日本のプロ野球史で最も多い150試合以上の公式戦が行なわれた1956(昭和31)年、西鉄ライオンズは逆転で二度目のリーグ優勝を遂げる。
その原動力となったのは、投手ではこの年入団した稲尾和久、畑隆幸ら新人と、長い下積みを経て開花した島原幸雄であった。打者では中西太が戦後初の三冠王を目前で逃す大活躍。打率で僅かに上回り三冠王を阻止したのは同僚の豊田泰光だった。
投打のレギュラー陣が活躍した1956(昭和31)年、日本シリーズは巨人を追われた西鉄・三原と巨人・水原の「宿命のライバル」監督初対決。九州のローカルチームだった西鉄が盟主・巨人を破り、人気もついに全国区となった。西鉄黄金時代の幕開けである。
(執筆・文責 益田啓一郎 編著「西鉄ライオンズとその時代」より) |
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昭和31年シーズン当初のクリーンナップ、右から中西太、大下弘、中谷準志。
1956(昭和31)年4月頃 所蔵:西日本鉄道 |
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日本シリーズ開幕前日の9日、翌日からの平和台での観戦チケットを求めて並ぶファン。
1956(昭和31)年10月9日 所蔵:西日本鉄道 |
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日本シリーズ観戦券を求める行列の前に登場
した牛乳売り。福岡スポーツセンター前。
1956(昭和31)年10月10日 所蔵:西日本鉄道 |
日本シリーズ前日、平和台球場に登場した
西鉄ニュースカー。
1956(昭和31)年10月11日 所蔵:西日本鉄道 |
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日本シリーズ第2戦を電気店の店頭テレビで観戦するファン。福岡では昭和31年春にテレビ
放送が始まっていた。写真は新天町にて。
1956(昭和31)年10月11日 所蔵:西日本鉄道 |
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第2戦終了後、空路で福岡へ戻った選手たち。福岡空港にて。
1956(昭和31)年10月11日 所蔵:西日本鉄道 |
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