西鉄クリッパース(パ・リーグ)と西日本パイレーツ(セ・リーグ)が合併して西鉄ライオンズが誕生したのは1951(昭和26)年シーズン前の1月30日。内野手兼任監督にはクリッパースの宮崎要、総監督には巨人を退団した三原脩が就任した。
 合併時に主力選手を他球団に引き抜かれ、寄せ集めの状態ながら同年は健闘して2位に躍進する。地元福岡のファンは盛り上がったが、実際は首位南海に大差をつけられてのものだった。優勝するためのチームづくりのために、西鉄本社や球団の全面協力を得た三原は、数年後のチーム構想をもとに積極的に選手の補強に務める。
 1952(昭和27)年には甲子園を沸かした「四国の怪童」中西太を獲得。さらに前年、東急で驚異の打率.383、本塁打26本の二冠をとった「青バット」大下弘を交換トレードでの獲得に成功する。そのいずれも三原自身が新信念を持って精力的に動き、他球団との情報戦の中で間一髪で獲得したものだった。中西は新人王を獲得し一年目から中心選手となる。
 翌1953(昭和28)年はさらに積極補強で、豊田泰光、高倉照幸、河村久文、西村貞朗らが入団。豊田は1年目からショートに定着し新人王を獲得する。高倉は2年目に頭角を表し外野レギュラーに定着。河村と西村は揃って2年目に20勝投手となるなど、初優勝に向けての戦力が整っていった。
 そして1954(昭和29)年、この年入団しセカンドに定着した仰木彬を加えた西鉄ライオンズは、念願のパ・リーグ初制覇を達成するのである。
(執筆・文責 益田啓一郎 編著「西鉄ライオンズとその時代」より)
平和台球場での練習風景、バッターは中西太選手。 1953(昭和28)年5月 所蔵:西日本鉄道
ナイター設備が整う前の平和台球場外野席での観戦風景。
1953(昭和28)年5月 所蔵:西日本鉄道
平和台球場での開幕セレモニー。花束を受ける
三原脩監督と宮崎要コーチ。
1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
入団時の高倉照幸外野手と河村久文投手。
春日原球場にて。
1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
平和台球場での初ナイターに九州各地から集まった観客と送迎バス。
1954(昭和29)年6月2日 所蔵:西日本鉄道
平和台球場での初めての日本シリーズ、第3戦試合前のセレモニーの様子。
1954(昭和29)年11月2日 所蔵:西日本鉄道
日本シリーズ第3戦当日の光景。
来賓席入口の横断幕。
1954(昭和29)年11月2日 
所蔵:西日本鉄道
日本シリーズ第3戦、勝利投手賞の河村久文と
本塁打賞の日比野武捕手。商品は自転車。
1954(昭和29)年11月2日 
所蔵:西日本鉄道
日本シリーズ第3戦、最高殊勲賞の川崎徳次投手と敢闘賞の仰木彬内野手。
1954(昭和29)年11月2日 所蔵:西日本鉄道
ナイター設備が整う前の平和台球場の試合風景 1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
昭和27年、春日原球場での開幕戦試合前、ライオンズ選手の記念撮影
1952(昭和27)年3月21日 所蔵:西日本鉄道
公式戦開幕前日に行なわれた「激励の夕べ」。 1953(昭和28)年3月20日 所蔵:西日本鉄道
昭和28年入団の投手3人、西村貞朗、
Mオニール、河村久文。
1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
初代の西鉄ライオンズ・ユニフォーム姿の
関口清治、塚本悦郎両外野手。
1952(昭和27)年 所蔵:西日本鉄道
大下弘外野手のバッティング練習風景。 1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
川崎徳次投手の投球練習。
1954(昭和29)年 所蔵:西日本鉄道
「激励の夕べ」での中西太選手のど自慢
1953(昭和28)年 所蔵:西日本鉄道
平和台球場での初めての日本シリーズ、第3戦当日に開門を待つファンの列。
1954(昭和29)年11月2日 所蔵:西日本鉄道
シリーズを終えて帰福した選手、博多駅にて。
1954(昭和29)年11月9日 
所蔵:西日本鉄道
スタンド最後方の立ち見席風景。
1954(昭和29)年 
所蔵:西日本鉄道
平和台球場での初めての日本シリーズ、第3戦の試合風景。
1954(昭和29)年11月2日 所蔵:西日本鉄道
 
 
 
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