初のリーグ優勝を達成した昭和29年に22勝、昭和30年に19勝、そして初の日本一になった昭和31年に21勝と、重い速球と「懸河のドロップ」と言われたタテに落ちるカーブを武器に大活躍したのが、西村貞朗投手だ。
 一年目の昭和28年10月、米国オールスター・チームが来日し、パ・リーグ中心の対戦で12試合を闘った。西村は第5戦で全パの3番手として大リーグ選抜相手に2イニングを投げた。その投球は全米チームを率いるエド・ロパット投手兼任監督の目にとまった。
 ロパットは残り試合に西村を全米チームの一員としてプレーさせ指導したいと三原に申し出る。弱冠19歳の西村にとって願ってもないチャンスとみた三原はこれを快諾、西村は以降の7日間を全米チームの一流大リーガーと試合・練習・寝食を過ごし、他の選手からは「シンデレラボーイ」と羨ましがられた。
 第9戦と第11戦に全米チームの投手としてマウンドに上がった西村は、現役大リーガーのプレーや思考を肌で感じ、7日間の武者修行で野球観が変わったという。
 翌春、西村にロパット率いるニューヨーク・ヤンキースのキャンプに参加しないかと誘いが来る。さすがの三原も今度は西村の渡米に反対し、周囲からの説得に西村は大リーグ挑戦を断念。日本人初の大リーガーは幻となった。
 鉄腕・稲尾和久の台頭後、西村の登板機会は減ったが、円熟の投球をみせた昭和33年7月19日の対東映戦(駒沢球場)でプロ野球史上5人目の完全試合という大記録を達成する。緊迫した投手戦、7回に豊田の本塁打が出て1対0の辛勝だった。最後の打者に向かう時、頭の中に翌日の新聞見出しが浮かんだという。
 
全米チームに帯同しフィリーズのロバーツ投手に
指導を受ける西村。
(昭和28年11月)「野球界」
昭和28年12月号より転載
 
 
 
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