西鉄クリッパース時代から西鉄ライオンズが昭和47年のシーズン限りで球団を譲渡するまでの23年間、ただの1日も休まずに、球団職員として平和台球場のウグイス嬢を務めたのが今泉京子さんである。
「他の球団は数人のウグイス嬢が交代でアナウンスを担当したけど、西鉄は最後まで私1人。喉が弱くてよく熱を出した。40度の熱があって声が出ない時も、代わりはいない。私がやるしかなかった。」
西鉄が球団を持つと決めた際、本社事業課の所属だった彼女は業務命令で出向、わずか5名の球団職員中、唯一の女性だった。西球団社長が彼女をアナウンス係に抜擢、しかしアナウンス経験どころか、野球を見たこともなく、ルールも全く知らない位置からのスタートだった。
教えてくれる人は誰もいない。ラジオでプロ野球中継の実況を聴いたり、草野球を観ながら実況の練習をした。生粋の博多っ子の彼女は最初の頃、博多弁まる出しのアナウンスをしてしまい、相手チームから笑われた。悔しさを噛み締めて、無我夢中で実況経験を積み、彼女はいつしか監督や選手、審判からも「きょうこちゃん」の愛称で親しまれ信頼されるようになる。
「仕事の厳しさを教えてくれたのは三原監督。私にとって平和台球場の放送室は戦場、マイクに向かえば失敗は許されなかった。」三原監督に誉められようと無我夢中だったという。
アナウンスに万全を期すために、新聞スクラップをまとめたり、スコアブックも自分流で工夫してまとめた。試合開始の2時間半前には球場入りし、前日までの両チームの選手の公式記録などを確認し原稿を用意。当日の天候なども含めて情報を整理し準備して、万が一のトラブルにも柔軟に対応することができるようになったのである。