大下は「天才打者」と呼ばれた。生涯最高打率はプロ野球が二リーグ制となった昭和25年の3割8分3厘である。永いプロ野球史の中で、3割8分以上を打った打者は大下を含めて4人しかいない。二日酔いで放った一試合7打席連続安打は今も日本記録である。ミートの天才だった。
そんな大下が東急から西鉄に移籍した年、甲子園のスター選手・中西太が高松一高から入団してきた。「四国の怪童」の異名を取った中西を、同郷の三原監督自ら動いて毎日オリオンズとの競合の末に獲得した。
中西は高卒ルーキーとして1年目から活躍し新人王となった。2年目の28年は36本塁打、86打点で二冠(打率2位)。初優勝した29年も31本で連続本塁打王となる大活躍。この年は大下も最高殊勲選手となる活躍で、二人はまさに三原監督の構想した大型打線の核であった。
二人の野球に取り組む姿勢も、若い選手の多かった当時の西鉄に好影響を生んだ。練習熱心だった中西は、寮に戻ってからもヒマさえあれば素振りをした。「あの中西さんがやってるんだから」と他の若い選手たちも競うように夜遅くまで練習した。
大下は若い選手たちを誘って、夜の中洲に飲みに行くことも多かったが、どんなに夜遅くまで飲んでも、早朝から起きてランニングや素振りで汗を流していたという。
シャイな大下は人前では練習嫌いのように装っていたが、「影の努力を惜しまない大先輩だった」とは、当時を懐かしみ河野、高倉ら苦楽を共にした方々が揃って口にする証言である。二人の存在が、最強と言われた西鉄ライオンズ選手の精神的な支柱だったことの証明であろう。