開幕戦の試合前、ベンチで談笑する大下(左)と中西(中央)。
1957(昭和32)年3月30日 所蔵:西日本鉄道(株)

大下と中西 雑誌「野球界」1955年5月号より
引退試合の日、ベンチで出番を待つ大下弘。
1960(昭和35)年3月2日 所蔵:西日本鉄道(株)
中西・大下の打撃フォーム 雑誌「野球界」1959年9月号より
 昭和20年代末から30年代前半の全盛期、他チームから「水爆打線」と恐れられた西鉄打線の中核を担ったのは、大下弘(背番号3)と中西太(背番号6)の元祖「ON」砲だった。3番中西、4番大下の西鉄ONコンビの誕生はライオンズ誕生の翌年、昭和27年4月。巨人軍の王・長嶋のONコンビは王がレギュラーに定着した昭和37年以降の事だから、こちらが元祖ONである。

 野球の華であるホームランを日本プロ球界で最初に量産したのが大下だった。戦後、プロ野球リーグ戦が再開された昭和21年に東京セネタースでデビューし、いきなり20ホーマーで本塁打王。戦前の年間本塁打数の最高が11本、飛ばないボール、劣悪な野球環境を考えると大下の登場は平成6年のイチローのデビュー以上に衝撃的だっただろう。
 翌22年は打率・本塁打の二冠。赤バットを使って人気を集めていた川上哲治に対抗して、大下は「青バット」で流れるような美しいフォームから放物線の大きなホームランを放ち、スーパースターとなった。大下のニックネーム「ポンちゃん」は、白球を面白いようにポンポンと外野スタンドに打ち込んだ事から来ている。

 大下は「天才打者」と呼ばれた。生涯最高打率はプロ野球が二リーグ制となった昭和25年の3割8分3厘である。永いプロ野球史の中で、3割8分以上を打った打者は大下を含めて4人しかいない。二日酔いで放った一試合7打席連続安打は今も日本記録である。ミートの天才だった。

 そんな大下が東急から西鉄に移籍した年、甲子園のスター選手・中西太が高松一高から入団してきた。「四国の怪童」の異名を取った中西を、同郷の三原監督自ら動いて毎日オリオンズとの競合の末に獲得した。
 中西は高卒ルーキーとして1年目から活躍し新人王となった。2年目の28年は36本塁打、86打点で二冠(打率2位)。初優勝した29年も31本で連続本塁打王となる大活躍。この年は大下も最高殊勲選手となる活躍で、二人はまさに三原監督の構想した大型打線の核であった。

 二人の野球に取り組む姿勢も、若い選手の多かった当時の西鉄に好影響を生んだ。練習熱心だった中西は、寮に戻ってからもヒマさえあれば素振りをした。「あの中西さんがやってるんだから」と他の若い選手たちも競うように夜遅くまで練習した。
 大下は若い選手たちを誘って、夜の中洲に飲みに行くことも多かったが、どんなに夜遅くまで飲んでも、早朝から起きてランニングや素振りで汗を流していたという。
 シャイな大下は人前では練習嫌いのように装っていたが、「影の努力を惜しまない大先輩だった」とは、当時を懐かしみ河野、高倉ら苦楽を共にした方々が揃って口にする証言である。二人の存在が、最強と言われた西鉄ライオンズ選手の精神的な支柱だったことの証明であろう。

執筆・文責:益田啓一郎
 
 
 
 
 
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