松永安左エ門ら九州鉄道の経営陣の悩みの種は、1924(大正13)年4月に九鉄福岡ー九鉄久留米間の開業以来、路線延伸や沿線開発が進まず赤字を続けていたことです。松永は開業前から大牟田・熊本への路線延長を構想し、久留米ー大牟田間の計画を立てますが出願は幾度も却下されています。三池炭鉱を中心に栄えていた大牟田への延長は九州鉄道にとって一刻も早く実現したい目標でした。
難局を打開すべく、松永は大川鉄道の経営権取得を目指します。1909(明治42)年設立の大川鉄道(上久留米ー津福ー大善寺ー若津間を蒸気機関で運転)は三瀦郡大川町ー山門郡柳河町ー三池郡大牟田町間の免許を保有しており、大川鉄道を傘下に収めることで大牟田延長が実現に向けて動き出します。1927(昭和2)年4月までに大川鉄道の株式を取得し経営権を掌握し、12月15日付で大善寺ー柳河間の地方鉄道免許を取得。国鉄の久大本線と鹿児島本線をまたぐ大工事を経て、海東要造が社長を務めていた1932(昭和7)年12月28日、久留米ー津福間を延長開業しました。
また、松永は大川鉄道を傘下に収めた直後の1930(昭和5)年6月から久留米ー熊本間で暫定的に自動車営業を始めます。これも大牟田・熊本への路線延長を前提とした需要開拓の一環でした。
さらに松永は進藤甲兵(松永曰く「東邦電力の中でもっとも戦闘力のある腹心)を社長に送り込みました。松永はたびたび現場を担う進藤の激励に出向き、大牟田市内の用地買収に際しては「相場より高いものを要求してくるので困る」と言う進藤に対して、「いくら高くても買ってしまえ。土地というものは必ず値上がりするものだ。価格にこだわらず早く片付けろ」と叱咤しています。
九州鉄道は1937(昭和12)年5月1日付で大川鉄道を合併、大牟田への延長工事を本格化しました。同年10月1日には大善寺ー柳河間を開業、福岡ー柳河間58.8kmの直通運転を開始。同時に、当時の流行であった流線型を取り入れた「快速軽量電車」21形電車10両を導入して運転の高速・効率化を目指します。
戦時体制下で金融状況が悪化する中、九州鉄道は東邦電力グループの東邦証券保有からの借り入れによって柳河ー大牟田間の工事に着工。1938(昭和13)年9月1日、柳河ー中島間を、10月1日に中島ー大牟田栄町間を開業しました。翌1939(昭和14)年7月1日、松永の当初構想から約30年を経て念願の福岡ー大牟田間が全通し、11月1日から急行運転を開始しました。全通によりターミナル百貨店・岩田屋の開業、柳河延長時に運賃を大改訂し値下げを敢行したことと合わせて、九州鉄道の利用客は大幅増となり経営は好転しました。
進藤はさらに輸送力の増強策を次々と打ち出し、熊本延伸をにらんで日本初となる急行用「関節式(連接式)」電車500形の設計に着手します。1942(昭和17)年9月1日、戦時体制下で九州鉄道を含む福岡県内の鉄軌道5社(九州電気軌道、九州鉄道、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道、福博電車)の合併が成立し、「西日本鉄道」が誕生。九州鉄道は西日本鉄道「大牟田線」となりますが、進藤甲兵は500形の完成を見ることなく、惜しくも同年2月に急逝しました。500形の運転開始は合併1年後の1943(昭和18)年9月10日でした。