松永安左エ門が福博電気軌道開業をめざして1909(明治42)年に福岡に本拠を置いてから30年余り、戦時下の企業統合によって福岡県内の私鉄など交通機関は西日本鉄道に統合され、電力事業は戦後九州電力に、ガス事業は西部ガスへと再編成されました。松永が構想した「交通・電力体系の一元化」は戦時体制下で実現し、公共サービス事業としてそれぞれ今日まで進化発展しています。
戦後、松永は今日に続く電力事業再編・分割民営化(九電力体制)を実現し「電力の鬼」と呼ばれましたが、彼が福岡市、とくに天神地区に遺した功績は目に見えるものだけではありません。「渡辺通り」に名を遺した渡邉與八郎がそうであったように、松永も天神の将来性を早くから見抜き、天神地区が一体的に発展するための構想をひとつずつ実現していきました。意識的な先行投資が人の流れを生み出し、集客力を高めるための試みを実行することで伝えていったのです。
終戦後の1948(昭和23)年、松永の「天神開発」構想の1番の理解者であった岩田屋百貨店の中牟田喜兵衛を中心に、商店主が「都心界(設立時は都心連盟)」を結成し、共同宣伝や親睦会による連携を開始します。さらに1955(昭和30)年には天神地区の多業種100社が集い「天神発展会」が結成され、天神地区の一体開発に向けてのまちづくり活動が始められました。これが今日の「We Love天神協議会」の前身です。
利権などが絡み博多地区の復興が遅れ気味となったのに反して、天神地区では新天町をはじめ、西鉄街や因幡町商店街などが次々と誕生しました。岩田屋と西鉄福岡駅を中心に繁華街化が進み、昭和30年代中頃には博多地区を抜いて天神地区が商都・博多の中心地となります。
都心界をはじめ、天神地区が一体的に、意識的に発展したことは各商業施設がそれぞれ発展の記録を10年ごとの節目に活動記録を「記念誌・周年史」という形で遺してきている事でも判ります。これは博多地区の商業施設には無いことで、福岡市最初の百貨店である玉屋百貨店をはじめ「博多五町」と呼ばれた博多地区の中心商店街にも無いものです。
都心界に加盟する商業施設をはじめとする天神地区の企業は、過去を振り返る事で初心を忘れず、さらなる発展に活かしてきました。松永の意志を受け継ぎ、天神大牟田線と天神地区の開発を第一として事業を進めてきた西日本鉄道は、度重なる天神流通戦争のなかで天神地区の商業勢力図が変化するなか、一環して縁の下の力持ち的な立場で発展を見守り続けています。