松永安左エ門は東邦電力副社長となって福岡を離れて以降も、九州鉄道の経営に注力します。九州鉄道の社長は伊丹弥太郎に代わって1930(昭和5)年12月に海東要造(東邦電力専務)が就任、さらに1933(昭和8)年6月には進藤甲兵(東邦電力常務)に交代して松永の意志を継ぎました。
松永はさらに九鉄福岡駅のターミナル百貨店化を目論みます。盟友・小林一三が日本初のターミナル百貨店・阪急百貨店で成功していたことが松永の「天神地区発展」構想に欠かせないものとなっていました。そこで白羽の矢を立てたのが九州電灯鉄道(東邦電力の前身)の株主にも名を連ねていた呉服商・岩田屋の中牟田喜兵衛でした。
中牟田は福岡・大工町で創業した岩田屋の博多支店(博多・麹屋町)を経営する傍ら、呉服店から大衆向けの商売への進出をめざして、1931(昭和6)年に衣料品と日用雑貨を扱う売場面積150坪の実験店舗「岩田屋マート」を開きましたが、売場面積の小ささに伴う品揃えの不備が響きわずか1年で閉店。本格的な百貨店経営への転換をめざして出店用地を探していました。
中牟田のもとには太田清蔵が所有する呉服町角の一等地など複数の出店候補地がありました。当時の天神地区は九鉄マーケットや松屋百貨店があったものの、博多地区の繁華街(呉服町・川端町・東中洲など)に比べると発展途上で、松永が提供する九鉄福岡駅敷地は当時の常識では集客の見込みが薄い最もリスクある土地でした。
松永は中牟田に小林一三を紹介し、鉄道とデパートの相乗的な利用客増加を狙ったターミナル百貨店の将来性を伝えるとともに、開業に向けての阪急百貨店のノウハウ伝授などサポート体制を整えて中牟田の説得に成功します。九州鉄道は1935(昭和10)年2月、福岡停留場(初代福岡駅)の土地600坪を岩田屋の関係会社である共栄土地建物に売却し、初代駅の南に駅舎を移転。福岡停留場(二代目福岡駅)は岩田屋開業前の3月29日に移転新築されました。
九州初のターミナル百貨店「岩田屋百貨店」は1936(昭和11)年10月7日に開店しました。建物には九州鉄道の乗り場案内が掲示され、1階に乗降客出入り口や通路を設置されるなど、鉄道駅と直結した利便性を打ち出す事に成功し、開業初日に10万人を超える買い物客を集めました。後年、鉄道と一体化された百貨店の存在は、戦災で焼け野原となった天神地区が博多地区に先駆けて復興が始まり、現在の西日本一の繁華街・天神への足がかりとなったのです。