松永安左エ門ら筑紫電気軌道の発起人が当初出願したのは、福岡から太宰府を経て久留米に至る路線でしたが、監督官庁である鉄道院から下付されたのは計画の一部である福岡ー二日市間17.7kmの特許だけでした。国鉄線と平行する区間が多いことから、二日市ー久留米間については「目下ノ交通状態ニ於テ敷設の必要ナシ」とされ、福岡ー二日市間の特許も3ヶ月後には鉄道院から終点を太宰府へ変更されるなど、曲折が続きます。
1919(大正8)年、5年ぶりに久留米までの特許を再申請し、10月10日に福岡ー二日市間の路線変更の許可、11月21日に二日市ー久留米間の特許をそれぞれ得ることができました。その後、国鉄線と平行していた二日市ー久留米間は地元の要望や用地取得の困難を避けて、久留米市街(日吉町)通過案を変更するなど経路変更を2度行ない、1923(大正12)年7月28日に開業時の路線許可を得ました。
1922(大正11)年、九州電灯鉄道は東京進出を目論む福澤桃介の意向に沿って関西電気(関西水力電気と名古屋電燈が前年に合併)と合併改組し「東邦電力」が誕生します。東邦電力は本社を東京に置き伊丹彌太郎が社長、松永は副社長となり福岡を離れ、九州・近畿・中部(1府11県)に及ぶ大勢力の推進役として活躍の場を広げていきました。
同年、筑紫電気軌道は増資を経て6月15日に商号を「九州鉄道」と変更。東邦電力の誕生で消滅した九州電灯鉄道の略称「九鉄」と社紋のデザインを継承しました。9月16日に建設工事が着工され、1924(大正13)年4月12日、18ヶ月の工期を経て福岡ー久留米間39.1kmが開業しました。開業時の福岡ー久留米間の所要時間は55分、運賃は福岡ー二日市間が片道31銭、福岡ー久留米間が同65銭でした。