「電力王・電力の鬼」と呼ばれ戦後の電力事業再編・分割民営化(九電力体制)を実現した松永安左エ門。
彼の事業家としての基礎は福博電気軌道や九州鉄道の開業をはじめとする福岡での活動から始まりました。
天神の可能性に真っ先に目をつけ、天神発展の基礎を築いた松永の軌跡を辿ります。


 松永安左エ門は1917(大正6)年7月5日付で、前身の博多電灯開業以来ずっと福岡市東中洲にあった九州電灯鉄道の本社を、天神町58(現在の天神ビルの場所)に移転します。鉄筋コンクリート3階建ての新本社ビルは、竣功当時福岡市最大の建築物として威容を誇り、屋上の時計台は天神町最初のシンボルとして永く市民に親しまれます。

 松永は天神町の可能性に早くから目をつけていた一人で、福博電気軌道の本社も設立時から天神町に置かれました。当時の天神町は福博電気軌道の路線が通る狭いエリア(現在の天神橋西詰から西鉄グランドホテル前交差点まで)です。町の大半が学校(高等小学校、英和女学校など)や官庁(市役所、県庁など)が集まる静かな住宅街でしたが、福博電気軌道と博多電気軌道が交差する「天神町交差点」に登場した九州電灯鉄道本社ビルは、その後の天神発展の先駆けとなりました。

 一方、松永は福博電気軌道の開業前から路線拡大を目論み、1909(明治42)年10月25日付で二日市に至る市外延長線を出願しています。これが現在の西鉄天神大牟田線に繫がる計画で、同年12月には申請が却下されます。福博電気軌道開業後の1911(明治44)年1月16日には別会社の久福電気軌道として今度は二日市を経由して久留米までの計画を出願しますが、これも1913(大正2)年11月に却下されました。

 松永を中心とする九州電灯鉄道は1913(大正2)年10月6日に3度目の申請を「筑紫電気軌道」として行い、翌1914(大正3)年4月6日付でようやく一部区間の特許取得に至りました。申請区間は筑紫郡住吉町(春吉)ー三井郡国分村(東久留米)間(43.5km)で、全線の半分にあたる20.5kmを新設軌道、その他を路面上に敷設する併用軌道とする計画でした。発起人には松永のほか、山口恒太郎、伊丹彌太郎ら九州電灯鉄道の役員が多く含まれ、松永とともに常務取締役となっていた慶応義塾時代の学友・田中徳次郎も名を連ねていました。

 筑紫電気軌道は1915(大正4)年10月1日付で設立登記を完了、本社は東中洲の九州電灯鉄道本社内に置かれました。1917(大正6)年8月15日付で九州電灯鉄道が本社を天神町へ移した際には、筑紫電気軌道も本社を同地へ移転しています。

 1919(大正8)年3月5日付で天神町(現在の福岡パルコの場所)への起点変更を出願し、同年10月10日に許可を得ました。初代の社長には九州電灯鉄道の社長であった伊丹弥太郎が就任し、同社で経営の実権を握っていた松永安左エ門も取締役に名を連ねました。後年、松永は「最も力を入れた事業が筑紫電気軌道(九州鉄道)の経営だ」と語っています。

 
 
 
天神初のランドマークとなった九州電灯鉄道本社ビル。
1920(大正9)年頃 所蔵:益田啓一郎
 
九州電灯鉄道本社ビル落成式当日の様子。
1917(大正6)年7月5日 所蔵:益田啓一郎
 
九州電灯鉄道本社ビル屋上に設けられた落成式会場で談笑する松永ら。
1917(大正6)年7月5日 所蔵:益田啓一郎
 

 
 
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