松永安左エ門は「独占を伴い、先行投資が必要である電気、交通などの事業は“合理的な体制で、最も経済的に”運営することが課題である。そのため企業はできるだけ集中した形で大きく経営する必要がある」と考えていました。福博電気軌道の専務として福岡市へ移住した当初からの「北九州の電気・交通を一つにまとめ、発電コストを下げて料金値下げを行い需要を拡大する」という大構想を、開業の翌年には実行に移します。
松永は太田清蔵が火力発電の「博多電灯」と水力発電の「広滝水力電気」の合同に失敗していた経験を踏まえ、周到に合併準備を進めます。まず、福博電気軌道の開業から半年後の1910(明治43)年9月5日、広滝水力電気の監査役であった松永が発起人代表となり「九州電気」を設立して常務取締役となり実権を握りました。佐賀の有力資産家である伊丹彌太郎を九州電気の専務に迎え、広滝水力電気の合併に成功します。
さらに太田の後任として山口恒太郎(福博電気軌道取締役)が社長となっていた博多電灯が1911(明治44)年11月2日付けで福博電気軌道を合併し、商号を「博多電灯軌道」に変更します。松永は九州電気社内の合同反対派をまとめ、翌1912(明治45)年6月、九州電気と博多電灯軌道を合併し福岡・佐賀両県にまたがる「九州電灯鉄道」が誕生しました。
九州電灯鉄道で常務取締役となった松永は戦略的拡大を続け、1913(大正2)年には佐世保電気、唐津軌道、七山水力電気、大諫電灯、糸島電灯を合併。1915(大正4)年には津屋崎電灯、宗像電気を合併し、福岡・佐賀・長崎3県にまたがる一大電力会社となりました。その後も1916(大正5)年に長崎電気瓦斯、馬関電灯、久留米電灯を、1917(大正6)年には長府電灯を買収するとともに彦島電気を合併して山口県にも勢力を拡大していきました。
これにより北部九州に電気事業は、九州水力電気、九州電気軌道、九州電灯鉄道による3社の競争時代となります。特に福岡市内の電灯・電力供給では九州電灯鉄道と、1912(大正元)年11月15日に博多電気軌道を合併した九州水力電気との激しい顧客獲得競争となりました。松永は設備の重複投資によるムダ排除を楯に両者の合同を画策しますが失敗に終わり、両社の覇権争いは日中戦争直前の企業統合時まで続きます。
松永は1913年(大正2年)、九州のガス事業を統合して西部合同ガス(現西部ガスの前身会社)を設立し社長に就任します。1917(大正6)年には博多商業会議所の会頭に就任するなど、この時期の松永は福博経済界の旗手となり、1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙に立候補し、修猷館卒で地元でも著名な中野正剛らを破って初当選しました(次の選挙では中野正剛に敗れて落選)。