1910(明治43)年3月9日、福博電気軌道は大学前ー黒門橋・呉服町ー博多停車場前間(6.4km)で運輸営業を開始しました。橋梁や用地費負担の軽減に加え、軌道まわりに敷石を用いず、レールも路面との面一を保つ溝型でなく通常の鉄道と同様の「工」字型を使用し、さらに架線に単線架空式を採用したことで、福博電気軌道の1哩あたりの建設費は12万円強となり、神戸電気軌道の75万円、大阪市電の55万円に比べて圧倒的に廉価で建設され、その結果として運賃は1区1銭という、当時としては格安の運賃に設定されました。
開業式は前日の3月8日に行なわれましたが、実はその場に松永安左エ門の姿はありませんでした。明日は開業式という前夜、松永は慶応義塾時代の同窓である小林一三とともに大阪市で捜査当局に拘束され、堀川監獄で開業日を迎えました。これは同年初め、小林一三が計画していた箕面有馬電気軌道(阪急電車)の支線野江線建設許可申請に伴い、小林の依頼に応じて大阪市助役・市議へ運動(橋渡し)したことが発覚したためでした。数日後、福澤桃介と北浜銀行の岩下清周の働きかけで二人は無事に出獄しましたが、松永と小林の縁は後年、九州初のターミナル百貨店・岩田屋の誕生へと繫がります。
福博電気軌道は開業から間もなく路線を延長します。4月17日には大学前ー箱崎口間、8月12日には箱崎口(後の吉塚道)ー箱崎間、12月18日には黒門橋ー地行間を延伸開業。翌1911(明治44)年3月11日には地行ー今川橋間の運輸営業を開始しました。
また、沿線の宅地開発や娯楽産業といった副業部門にも開業直後から率先して進出します。1911(明治44)年8月には伊崎浦に海水浴場を開設。これは先の九州沖縄八県連合共進会で使用した接待所を移築し、大理石の潮湯と割烹業を兼ねた一大温泉場でした。さらに隣接する西公園に演芸台を設置して、博多にわか・筑前琵琶・義太夫の上演や活動写真の上映を行い、納涼地への乗客誘引を図りました。
博多電灯が福博電気軌道を合併し商号を「博多電灯軌道」に変更した翌1912(明治45)年1月には、地行西町で賃貸住宅営業を開始。普通賃貸のほか、土地家屋の月賦販売も行ないました。こうした松永の戦略が功を奏し、開業翌年の1912年度の福博電気軌道線の利用客は年間660万人を記録。15年度には1000万人、1919年度には2000万人を突破しました。