渡辺與八郎は福岡市以外の地にも積極的な投資や開発を行なっています。その代表が遠賀郡八幡村尾倉(現・北九州市八幡東区)の埋め立て計画です。洞海湾に面した寒漁村だった八幡村は、1901(明治34)年の官営八幡製鉄所の操業開始で将来性が高まり、與八郎はいち早く周辺の土地を入手し、数年かけて現在のJR八幡駅南側から中央町にかけての広大な土地を開拓整地しました。
與八郎は整地した土地の一部を製鉄所用地として売却する一方で、まちづくり開発を加速させるために様々な仕掛けをします。そのひとつが八幡郵便局の用地提供と局舎の八幡村への寄贈でした。1908(明治41)年12月、家族とともに別府温泉へ保養旅行した帰りに埋め立て地の進捗状況を視察し、新築竣工した八幡郵便局をみて帰福した記録が遺っています。
遡って1906(明治39)年に小倉ー黒崎間などの軌道特許を出願した八幡馬車鉄道(同年、八幡電気鉄道と改称)の設立を與八郎は富安保太郎(銀行業・山門郡)や伊藤伝右衛門(大正炭鉱・嘉穂郡)らと先導します。翌1907(明治40)年9月、松方幸次郎ら関西財界の実業家が計画していた門司電気鉄道(門司ー小倉間の軌道特許を取得)と八幡電気鉄道の計画が、門司電気鉄道の発起人が八幡電気鉄道の発起人に加わる形で合併一本化され、九州電気軌道(西日本鉄道の前身、のちの西鉄北九州線)が誕生。與八郎はここでも表面に出ることを避けて役員にはならず、福岡側の有力発起人として創立常務委員になり計画をまとめています。
西日本鉄道には当時の発起人会議事録などが遺っており、與八郎が積極的に発言をしていたことが判ります。これは與八郎が博多電気軌道(西鉄福岡市内線循環線など)の計画を具体化する前年にあたり、彼の中には門司ー八幡ー筑豊ー博多間を高速鉄道(電車)で結び、さらに唐津や太宰府などへ路線を繋ぐ大構想があった事がわかります。博多電気軌道の開業を前に、九州電気軌道はひと足先に1911(明治44)年6月に開業。同年10月の與八郎急死後も構想を実現すべく筑豊・博多への軌道出願を続けましたが、ついに実現することはありませんでした。