渡辺與八郎が最初に東中洲と博多港の開発に関わったのは、日清戦争で日本が勝利した1895(明治28)年です。戦勝ムードの好景気の中、博多の財界でも「博多貿易港増設」運動が盛上り、特別輸出港への申請協議委員会に與八郎(当時は與三郎)の名が見えます。
1905(明治38)年、日露戦争での戦勝によりロシア人捕虜1000余人が博多港に入港します。與八郎の手引きにより東中洲・共進館周辺の一角(現在の中洲大洋劇場周辺)に収容所が開設され、海軍の捕虜が収容されました。ロシア人捕虜は収容中も自由に博多の町へ繰り出すことが許され、近郊からは多くの見物人が集まりました。これが東中洲に本格的な歓楽街が誕生する先駆けとなったといいます。また、福岡最古のパン店として開業した三好屋(明治30 年創業、平成18年休業)は収容所へ食パンを納入、これを見た見物人がパンに興味を持ち、福岡の町でパン食文化が普及するきっかけになりました。
1909(明治42)年9月、暴風雨で那珂川・博多川に架かる橋のうち、西中島橋を遺して大半が流出・破損しました。與八郎は個人で岩崎建設に橋の復旧工事を依頼(当時のお金で2万4千円)。博多川に架かる浜新地橋・東中島橋・作人橋・水車橋・冷泉橋の架け替え工事が行なわれ、災害からの早期復旧に繫がりました。
1911(明治44)年1月、與八郎は博多電気軌道(のちの西鉄福岡市内線循環線、吉塚線、貨物専用の築港線)の開業を前に、東中洲・南新地一帯に広大な敷地を占有していた煙草専売所(のちの専売公社)に移転の説得を行います。與八郎所有の吉塚妙見松原の土地(現在のパピヨンプラザ)を提供し、支線(吉塚線)に「専売所前」停留所を設置する条件で移転を成立させました。これは、当時の中洲の南側には電灯会社や専売公社、知事官舎をはじめとする施設や民家が多く、博多と福岡の交流地点という中洲の将来性を考えた際に、今後の発展を阻害すると考えたためです。3月には中洲の北側、浜新地の埋立許可を得て中洲全体の活性化をめざしました。
博多築港と鉄道省線や博多駅とを旅客・貨物の両面で連絡する博多電気軌道の計画が進む中、與八郎は軌道の沿線に貿易会社や専売公社などを配置することで、輸送・沿線発展の両面の効率化をめざします。5月、福博遠洋漁業を設立。6月、博多貿易商会を結成。いずれも自身は表に出ず、弟名義での株式出資で支援しました。