渡辺與八郎が人生の師と慕った山崎藤四郎は「道と橋を造ることが博多の繁栄につながる」という信念のもと、1880(明治13)年には川端・片土居新道(寿通り)を造って商店街化、戦前の博多の名物商店街となりました。さらに博多大桟橋や大浜新道の整備をはじめ、寿橋・中洲橋の架設、博多駅前馬場新道、櫛田神社前の社家町新道(参詣道)などの開設を先導しており、與八郎は藤四郎の姿勢に多大な影響を受けていたことが判ります。
博多電気軌道(のちの西鉄循環線)計画も、もともとは藤四郎の業績に見習って博多周辺を一周する幅15メートルの循環道路の開発を考えたことに端を発しています。実現には沿線の土地取得に加えて御笠川(石堂川)と那珂川の上流および河口に4つの橋を架ける必要があり膨大な費用がかかることも予想できました。
新道路の計画線は、1910(明治43)年に肥前堀を埋め立てて開催される「第13回九州沖縄八県連合共進会」の会場敷地を縦断する計画でした。会場敷地の南端にあたる警固村法印田(現在の西日本新聞社一帯)の田畑買収・埋め立てと平行して、1908(明治41)年12月以降に博多停車場から住吉村にかけての用地、現在の柳橋から渡辺通4丁目交差点にかけての田畑を順次取得しています。
與八郎が循環道路を計画した1907(明治40)年頃は交通機関といえば省線(国鉄)汽車と人力車の時代です。投資して開発する循環道路を最大限に活かすべく、道路上に電車を通す計画に変更しました。
新設道路に電車を通す新たな案は、1907(明治40)年に福岡市が博多中心部を東西に横断する新道(現在の明治通り)を開き、電車を通す「福博電気軌道」の計画を公表したことがきっかけでした。與八郎はこれに応じて土居町から西町にかけての所有地の寄付願いを真っ先に提出、出資でも協力しました。新道の電車通りが家屋の立ち退き跡にできたため、沿線の商店は道路に背を向けた状態でしたが、與八郎は真っ先に支店を電車通りの土居町角に移転しています。