1900(明治33)年、渡辺與八郎は福岡医科大学(現在の九州大学医学部)誘致に際し、真っ先に運動資金を寄付。これにより地元での誘致運動が活発になり、当時福岡市よりも規模が大きく優位な条件が揃っていた熊本や長崎に競り勝つことに繋がりました。医科大学は、当時東中洲にあった県立福岡病院を「京都帝国大学福岡医科大学」と改称することで設置が公布され、1903(明治36)年4月に開校しました。産業の無い福岡市にとって、大学誘致はその後の都市発展の基礎となったのは言うまでもありません。與八郎は苦学生に無償で奨学金を援助するなど、将来の人材育成にも熱心でした。

 さらに1909(明治42)年、工科大学の開設と医科大学を含む帝国大学への昇格問題が起こります。医科大学の帝国大学昇格に関して「隣接する地に遊郭があることは風紀上好ましくない」旨の通達を受けて、與八郎は柳町遊郭(50楼閣・約千人、現在の博多区大博町・石城町付近にあった)の移転問題に奔走します。大吉楼の経営者・池見辰次郎が楼主側の代表となり與八郎に協力し、住吉村高畑(渡邊家の所有地、現在の中央区清川)に遊郭をまるごと移転させることで解決しました。1910(明治43)年12月限りで大移動が実現。1958(昭和33)年の赤線廃止により遊郭街は消滅しましたが、「柳橋」の名称に遊郭の名残りが遺っています。
 

 
 
福岡医科大学正門(明治末
絵葉書所蔵:益田啓一郎
 
福岡医科大学の玄関(明治末)
絵葉書所蔵:益田啓一郎
工科大学本館(明治末)
絵葉書所蔵:益田啓一郎
 
博多・柳町(明治40年頃)
絵葉書所蔵:益田啓一郎
新柳町(明治末)
絵葉書所蔵:益田啓一郎
 
新柳町遊郭移転事務所(明治末)
絵葉書所蔵:益田啓一郎
 

 
 
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