1875(明治8)年12月1日、松永安左エ門は長崎県壱岐島に生まれました。幼名は亀之助、生家は壱岐で交易・酒造業・呉服・雑貨・穀物の取扱いや水産業を幅広く営む商家でした。15歳で上京して福沢諭吉の慶応義塾(予科)に入学し学問に取り組みます。米国留学をめざして英語を学びますが、1893(明治26)年、18歳の時に父(二代目・安左エ門)の死去にともない慶応を一時休学。壱岐へ帰郷し家督を継いで三代目・安左エ門となりました。
1895(明治28)年、21歳の時に家業を弟に継承して慶応義塾に戻り、法科(本科)へ進みます。ここで福沢諭吉に親近し、経済学や実業人としての思考を学び大きな影響を受けました。
慶応時代、松永はのちに名を成した幾多の学友と交遊します。加藤武男(三菱銀行頭取)、小山完吾(時事新報社長)、小林一三(阪急東宝グループ)をはじめ、九州電灯鉄道(のち東邦電力)で行動を共にする田中徳次郎らがいました。なかでも彼の人生行路に大きな方向付けをした福沢桃介(福澤諭吉の娘婿)と出会い親交を深めたのもこの頃です。松永は福澤諭吉に親近し毎朝5時からの散歩のお伴をするなど、積極的に学びの機会を創り、福澤の思想を吸収していきます。国元から資金を得て株式募集に応募して稼ぐなど、経験を積むなかで経済感覚も身につけていきました。
松永自身、自伝の中で「先生のお話のうち、若い頃はさほど気にとめなかったことでも、経験を経るにしたがって生きてきたし、大きな意義がわかってくることが多かった」と記しています。
1898(明治31)年、松永は福澤諭吉に相談の上で慶應義塾法科を中退。福澤桃介の紹介で日本銀行に入行しますが一年で退職、1899(明治32)年に桃介が設立した丸三商会を経て、神戸で石炭を扱う福松商会を設立。社名は二人の共同事業である事から頭文字をとって名づけられました。
福松商会での松永は経営・営業の全てを担い、実業家への第一歩を踏み出します。北海道炭の取扱いを皮切りに筑豊炭の取扱いも増やし、積み出し港である若松への筑豊炭鉱鉄道(現・JR筑豊本線)での石炭取扱量は住友や安川など財閥をしのぎ、1905(明治38)年頃には最大手の三井物産と肩を並べるほどとなりました。
しかし、松永は「自分でやま(炭鉱)を持てばさらに儲かる」と考えて筑紫炭鉱や天草炭鉱を買取ったものの、見込み違いで大損をして炭鉱経営から撤退。さらに桃介を見習って手を出した株式取引でも大損をしてしまいます。同じ頃、新婚早々の大阪角田町の自宅も火災類焼で全焼するなど裸一貫となり、1907(明治40)年に呉田の浜(現神戸市灘区)に蟄居し、以降2年を過ごしました。