戦後復興が進んだ1950年代末以降、名香野(昭和29年3月恒常駅化、現在の西鉄千早)、古賀ゴルフ場前(昭和33年10月開設)、香椎宮前(昭和34年3月恒常駅化)、金平(昭和37年開設、のち馬出三丁目)などの駅・停留場が新設・恒常駅化されました。名島ー西鉄香椎間の軌道は1959(昭和34)年3月1日に国鉄香椎操車場の拡張に伴い移設され、名島・名香野の両駅も移設されました。
この間、1959(昭和34)年7月の集中豪雨では宮地岳線も大きな被害を受け、花見ー西鉄福間間の西郷川橋梁の橋脚が崩壊。8月22日に復旧全通するまで40日を要し、その間は代替バスが運行されました。
高度成長期に入った1960年代、宮地岳線では輸送力増強とスピードアップを図るべく木造車の鋼体化が進められ、1963(昭和38)年までに木造車は姿を消しました。これに伴い1962(昭和37)年度には大牟田線から20形2両が転籍しています。さらに1968(昭和43)年8月に電動車2両、制御車1両が大牟田線から転籍し、客車総数は28両に増加しました。
この時期は宮地岳線の沿線で西鉄による団地開発が相次ぎ、花見団地(昭和41年)、鎧坂団地(昭和41年)、名島団地(昭和43年)、三苫団地(昭和47年)、福間駅前団地(昭和49年)などの分譲が始まり、これに合わせて各駅の改築整備が行なわれました。
また、博多湾鉄道時代から宮地嶽線と糟屋線が共用していた和白駅は、糟屋線が国鉄に戦時買収されて以降も国鉄・西鉄で共用していましたが、駅構内で両線が平面交差し運転に支障が生じるなど、運転保安上極めて危険でした。そのため1966(昭和41)年10月26日、和白駅の立体交差化が完成。国鉄との完全分離が実現しました。1970(昭和45)年3月には、開業時からのコンクリートアーチ橋「名島川橋梁」の補強工事も実施しています。
さらに1977(昭和52)年から翌78(昭和53)年度にかけて施設の大改良工事が行なわれ、列車無線や有線電話の設置、自動列車停止装置(ATS)と列車集中制御装置(CTC)が整備され、新宮駅に中央制御所が置かれました。
西鉄におけるワンマン運転は1960年代に始まり、福岡市内線ではボギー車のワンマン化が1968(昭和43)年4月26日から貝塚ー千代町などを結ぶ16系統などで始まりました。宮地岳線では1979(昭和54)年に運輸省の鉄道運転規則が改正されてワンマン運転が可能となった事を受けて、大牟田線から自動扉の車両を転籍してワンマン化を実現。1980(昭和55)年9月1日から2両連結車のワンマン運転を開始しました。 |