1929(昭和4)年8月16日、宮地嶽線(新博多ー宮地嶽間)は直流1500ボルトで電化され、電車運行が始まりました。全線の所要時間は従来の約1時間から約40分と大幅に短縮され、30分間隔の運転が可能となりました。
沿線の開発が少しずつ進み、1932(昭和7)年7月には新香椎(現・西鉄香椎)駅そばに新香椎球場が開設され大学や職業野球の試合が行なわれます。さらに沿線の工場地帯化が進み定期券利用の通勤客が激増。1935(昭和10)年には列車増発に対応するため、多々良車庫そばに農科裏信号所(のち駅に昇格し西鉄多々良、現・貝塚駅)が設置されました。
戦時体制下で電車利用者は増加したものの、臨時資金規制法により資金は自由に使えず、資材の調達も困難な時期でした。1941(昭和16)年、新香椎付近に渡辺鉄工所が航空機工場の建設を決めたことを受け、新博多ー和白間の複線化をはじめとする輸送力増強計画を立てますが、資金難から断念。単線のままで通票閉塞方式から単線自動閉塞方式へ切り替え、列車を増発する計画に改めます。しかし、増発に必要な電動車の製造が不可能な状況のため、他社で廃車となった木造車体を譲り受けて電動車化するなどの苦肉の策で対応しました。 |