西日本鉄道の誕生後、戦時中の車両増備は1943(昭和18)年9月10日に運転を開始した関節車500形(2両)が最後となりました。500形は日本の高速鉄道では初の連接式車両で、計画していた熊本延長の実現時には、時速100kmでの走行を想定した高性能車でした。1944(昭和19)年8月10日には柳河車庫も完成しています。

 1945(昭和20)年8月の終戦までに、大牟田線では大牟田ー栄町間の爆撃による不通(46年2月まで休止)をはじめ、機銃掃射によって筑紫駅で乗客64人が犠牲になるなどの被害がありました。破壊を免れた設備や車両も修理が行き届かず機能不全に陥り、戦後の資材不足も手伝って復興は遅れ、戦時中に休止した急行電車の運転再開は1946(昭和21)年10月1日でした。

 1948(昭和23)年頃のピーク時、混雑率は250%に達し、輸送力の増強は急務の課題でした。車両製造がようやく割当てられた48〜49年度に20両の300形電車が竣功、運輸省規格形電車300形は戦後復興期に活躍しました。関節車500形は1948(昭和23)年5月に座席をクロスシートからロングシートへ改造し、中間に新造車体を挿入した3車体4台車となりました。

 1951(昭和26)年11月、西鉄では運賃改定に合わせて「快適なサービスを提供する」とした輸送力強化新対策を発表。将来へ向けた最初の輸送力増強計画では、大牟田線の単線区間の複線化を進め、車両の整備とスピードアップを目指しました。同年5月には従来車両より1両あたり4トンの軽量化を図った600形(初代・120人乗り3両編成)2組を導入、53(昭和28)年3月には軽量化をより進めたモノコック(張殻)構造の313形(120人乗り2両編成)4組が新造されました。

 1957(昭和32)年5月、最高時速120キロ運転が可能な1000形(120人乗り・クロスシート車)4両編成2組を新造したのを皮切りに、1100形・1200形4両編成4組を新造。1000形は急行用車両としてデビューし、1957(昭和32)年12月25日のダイヤ改正で福岡ー大牟田間急行はすべて1000形4両編成に切り替えられました。

 1959(昭和34)年5月1日のダイヤ改正で、福岡ー大牟田間の急行は特急に変更され、それまでの所要時間82分は75分にスピード化。従来のローカル急行は急行に変更され、特急・急行が交互に45分間隔で運転開始、福岡ー久留米間は20〜25分間隔の運転となり、準急は廃止されて特急・急行・普通の3本立ての運行となりました。

 さらに1960(昭和35)年5月1日のダイヤ改正で、特急の最高時速は従来の90キロから95キロへスピードアップ。福岡ー大牟田間の所要時間は70分に短縮されて、ようやく戦前水準を超えました。急行は福岡ー久留米間を39分で結び、翌1961(昭和36)年6月21日には大牟田まで直通運転する急行の新設、11月1日にはラッシュ時における特急の5両連結運転を開始しました。

 
 
3車体化後の500形。
1948(昭和23)年頃 所蔵:西日本鉄道(株)
 
福岡駅ホームに停車中の1000形急行。
1957(昭和32)年頃 所蔵:西日本鉄道(株)
 
特急として登場時の1000形。
1959(昭和34)年頃 所蔵:西日本鉄道(株)
 
     

 
 
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