渡辺與八郎の尽力で博多電気軌道が部分開業したのは、1911(明治44)年10月2日でした。與八郎の懇願により社長を引き受けていた平岡良介は、開業直前にあたる9月の重役会議で「天神町から新柳町の間は、渡辺さんの労苦と犠牲を記念する意味において、ぜひ渡辺通または渡辺町としたい」旨の建議を提出し満場一致で可決。しかし與八郎はこれを固辞し続けました。開業から3日目の10月5日、平岡は社長を退任して與八郎に社長を引き受けさせ、表面に立つことを避けてきた與八郎もこの時ばかりは平岡をはじめとする周囲の期待を理解し、社長事務取扱として会社代表となりました。現在まで遺る唯一の與八郎の肖像写真は、代表を受諾した際に普段着のまま撮影されたものだと言われています。
開業から2週間後、與八郎は当時流行していたワイルス氏病という奇病にかかり発熱、九州帝国大学病院に入院。それまでの激務による心労疲労もあってか、発病からわずか2週間後の10月29日、與八郎は46歳で亡くなりました。
與八郎の死後、博多電気軌道は推進力を失って九州水力電気との合併の道を選択します。彼の計画した門司ー八幡ー筑豊ー博多ー唐津・太宰府に至る広域高速鉄道の夢は実現する事はありませんでしたが、彼が遺した遺産や計画は、様々な形で現在の福岡市発展の礎となりました。
開業当初の博多電気軌道本線(循環線)沿線は、約半分が当時の福岡市域の外側で民家も乗降客もまばらでしたが、大正期になると沿線の千代村・堅粕村・住吉村は次々と町へ昇格発展し、警固村は福岡市に編入されて市域拡大や沿線開発が始まりました。
中でも天神町の福博電気軌道線(現在の明治通り)と交差する「天神交差点」や「渡辺通り」沿線は未曾有の大発展を遂げて現在に至ります。與八郎の功績の中で最大の先見性は、天神交差点と「天神町停留所」を造ったことかもしれません。というのも、先に開業していた福博電気軌道には「天神町」停留所は存在しなかったからです。交差点が誕生し2つの軌道の乗り換え地点となった事により、官庁や学校しかなかった天神が繁華街への第一歩を記しました。「渡辺通り」という名称は、彼の功績を讃え彼の人柄を慕った人々が、彼の死後に名づけたものです。(終)