渡辺與八郎は福岡市が市制を敷いた1889(明治22)年に家督を継ぎます(継承当時は與三郎)。1895(明治28)年、日清戦争の戦勝景気に湧く福岡市では企業設立が相次ぎ、渡辺家でも父・與一をはじめとする紙與一族が「船越鉄道」に多額の投資を行なっています。船越鉄道とは、博多で九州鉄道(現JR九州)と連絡し、飯塚・篠栗・博多・今津・前原を経由して船越湾(現・糸島市船越漁港付近)に至る鉄道計画です。筑豊炭田や粕屋炭田の石炭輸送を目論むもので投資熱を刺激する内容でしたが、急激に訪れた戦後不況により計画が頓挫し、渡辺家も多額の損失を出しています。船越鉄道の計画は、のちに與八郎による北筑軌道の買収(博多電気軌道の路線計画)に形を換えて部分的に実現することになります。
同じ頃、與一は太田清蔵(四代目)と話し合い、県内で設立が相次いだ紡績事業の将来性を見越して「博多絹綿紡績」の設立を計画します。家業である呉服反物に繫がる紡績事業は太田と與八郎(当時は與三郎)を中心に計画は進められ、1896(明治29)年1月に会社を発足。翌1897(明治30)年2月、住吉村(現在のキャナルシティ博多の敷地)に紡績工場が開業しました。この時、與八郎は役員などに名を連ねず後方支援に徹しましたが、直後の紡績不況により経営が急激に悪化。太田や與八郎らの尽力で鐘ケ渕紡績の傘下に入ることとなり、1902(明治35)年12月に鐘ヶ渕紡績博多工場となりました。