1866(慶応2)年生まれの渡辺與八郎は、商都・博多の呉服商「紙与」の3代目として家督を継ぐと、家業の業績を伸ばす一方で福岡・博多の近代化につながるさまざまな事業に関わりました。その多くは資金援助や寄付など表面に出ない支援活動でしたが、彼の人柄の良さと面倒見の良さも手伝って、次々と相談話が舞い込みました。
 
 博多・紙与呉服店の祖で與八郎の祖父・與助は、1794(寛政6)年、筑前国穂波郡伊川村に生まれました。1807(文化4)年、與助は博多・須崎の楢崎(屋号・紙次郎)へ13歳で丁稚奉公に入り、22歳で年季明け後は番頭へ出世しました。1828(文政11)年4月の大地震・津波、6月の大洪水、8月の2度の台風被害を経て、博多の町や藩全体が長期にわたって困窮する中で、與助は旅商人(行商)として地道な努力を続け、1835(天保6)年に42歳で博多西町上ノ番に「紙屋與助」として独立しました。

 與八郎の父、2代目・與助(改名後は與三郎、隠居後は與一)は1830(天保元)年、博多掛町の借家時代に生まれました。1854(安政元)年に父・與助の死に伴い25歳で家業を継ぎます。幕末の動乱期の「大坂くづれ」に遭遇するも、機転を効かせて投げ売りされる呉服反物を持ち金すべてをはたいて船一杯買い占めて博多を目指しました。しかし世は「長州征伐」のさ中で、関門海峡通行時には長州軍・高杉晋作率いる奇兵隊に抑留されています。命がけで商機を握った與助は博多商人としての地歩を固め、呉服商「紙與」を発展させたのです。

 父・與助が奇兵隊に抑留されている頃に誕生した與八郎は、すくすくと成長し商道教育を受けました。父の勧めもあって、博多の最後の年行事を勤め「石城遺聞」などを著した山崎藤四郎を慕います。藤四郎は川端新道商店街や停車場新道などの開設に尽力した人物。「道と橋を造ることが博多の繁栄につながる」という事を行動をもって與八郎に伝えました。

 福岡市が誕生した1889(明治22)年、父(與三郎と改名)の還暦を機会に、23歳の與八郎は紙与本家の当主となり與三郎の名を継ぎました(父は輿一と再改名)。與三郎は1898(明治31)年に與八郎と再改名して家業発展に励む傍ら、小野派一刀流の指南役になるほど剣道場(一到館)に通い「兵法」と「武」の精神に学んで、広い視野と先見能力を身につけていきます。兵法の極意も商法のそれも原理が同じである事を悟り、兵法虎の巻「六韜三略」の極意“争わずして克つ、これ上の上なるものなり矣”を自戒とし金科玉条としました。一到館道場の先輩には平岡浩太郎(炭鉱主・玄洋社初代社長)や磯野七平(鋳造業・二代目福岡市長)らがおり、中野正剛・緒方竹虎らのちに政治家となる面々も同門でした。道場を通じて人脈と視野を広げていった事は容易に想像がつきます。

 
 
紙与連代の大のれん
写真提供:紙与産業株式会社
 
 
博多上西町の紙与本店(明治末)
写真提供:紙与産業株式会社
紙与呉服店(博多土居町電車通り・明治末
写真提供:紙与産業株式会社
 
紙与呉服店(博多土居町電車通り・大正7年頃)
写真所蔵:益田啓一郎
紙與呉服店 上棟式(明治末)
写真提供:紙与産業株式会社
 
紙与呉服店 誓文晴(明治末)
写真提供:紙与産業株式会社
紙与呉服店行ノ町支店(明治末)
写真提供:紙与産業株式会社
 

 
 
 
個人情報の取り扱いに関する基本方針個人情報に関する公表事項サイト利用規定
 企画・制作 西日本鉄道株式会社 Copyright(C) 2000-2014 by Nishi-Nippon Railroad Co., Ltd.