西鉄天神大牟田線の前身である九州鉄道は、1909(明治42)年に九州電灯鉄道の前身の福博電気軌道が出願した市外延長線計画(翌年申請は却下)に端を発します。九州電灯鉄道は1913(大正2)年10月6日に3度目の申請を行い、翌14(大正3)年4月6日付で一部区間の特許取得に至ったのが筑紫電気軌道の計画です。

 筑紫電気軌道は筑紫郡住吉村(現・福岡市中央区春吉)ー三井郡国分村(東久留米)間43.5km、軌間1435mmで全線の半分にあたる20.5kmを新設軌道、その他を路面上に敷設する併用軌道とする計画でした。発起人には松永安左エ門、山口恒太郎、伊丹弥太郎ら九州電灯鉄道(のち東邦電力)の関係者が名を連ね、1915(大正4)年10月1日付で設立登記を完了。本社は東中洲の九州電灯鉄道本社内に置かれました。

 1917(大正6)年8月15日付で九州電灯鉄道が本社を天神町(現在の天神ビルの場所)へ移した際、筑紫電気軌道も本社を同地へ移転。1919(大正8)年3月5日付で天神町への起点変更を出願し、同年10月10日に許可を得ました。初代の社長には九州電灯鉄道の社長であった伊丹弥太郎が就任し、同社で経営の実権を握っていた松永安左エ門も取締役に名を連ねました。後年、松永は「最も力を入れた事業が筑紫電気軌道(九州鉄道)の経営だ」と語っています。

 筑紫電気軌道の発起人が当初出願したのは、福岡から太宰府を経て久留米に至る路線でしたが、監督官庁である鉄道院から下付されたのは計画の一部である福岡ー二日市間17.7kmの特許だけでした。国鉄線と平行する区間が多いことから、二日市ー久留米間については「目下ノ交通状態ニ於テ敷設の必要ナシ」とされ、福岡ー二日市間の特許も3ヶ月後には鉄道院から終点を太宰府へ変更されるなど、曲折が続きます。

 1919(大正8)年、5年ぶりに久留米までの特許を再申請し、10月10日に福岡ー二日市間の路線変更の許可、11月21日に二日市ー久留米間の特許をそれぞれ得ることができました。その後、国鉄線と平行していた二日市ー久留米間は地元の要望や用地取得の困難を避けて、久留米市街(日吉町)通過案を変更するなど経路変更を2度行ない、1923(大正12)年7月28日に開業時の路線許可を得ました。

 この間、1922(大正11)年には増資を経て6月15日に商号を「九州鉄道」と変更。9月16日に建設工事が着工され、1924(大正13)年4月12日、福岡ー久留米間39.1kmが開業しました(工期は18ヶ月)。開業時の福岡ー久留米間の所要時間は55分、運賃は福岡ー二日市間が片道31銭、福岡ー久留米間が同65銭でした。開業時には新聞広告や街頭ポスター、飛行機によるビラ撒きなど積極的な宣伝活動が行なわれ、「九鉄急行電車開通」「電車ハ汽車ヨリモ早ウ御座イマス」と国鉄よりも利便性が高いことが強調されました。

 開業に合わせて製造した1形電車は、高出力(340馬力)・大型車両(15.3m、定員96人)の高性能車で、電気方式は当時の2倍以上の電圧1500Vを採用。連結運転のための総括制御方式も採用し、高速・高頻度の運転に不可欠な閉塞装置には全線にわたって自動信号が採用されるなど、当時最先端の車両でした。

 
 
那珂川橋梁(大橋ー井尻間)の工事風景。
1923(大正12)年頃 所蔵:西日本鉄道(株)
 
開業前、試運転時の春日原駅。
1924(大正13)年 所蔵:西日本鉄道(株)
 
昭和初期の初代九鉄福岡駅(現・西鉄福岡(天神)駅)。
1930(昭和5)年頃 所蔵:西日本鉄道(株)
 
 

 
 
 
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