西日本鉄道株式会社 創立110周年記念誌S
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38第1部 天神発展史博多電気軌道開通 須崎橋(提供:益田啓一郎)博多電気軌道開業と天神町交差点 1910(明治43)年3月、博多電気軌道が設立されて社長には平岡浩太郎の息子・良介が就任した。與八郎の構想に賛同し、現在の天神交差点付近にあった土地を提供したのが平岡良介である。天神町付近の工事は計画線が共進会会場を縦断していたため、共進会の閉幕を待って再開された。 翌11年10月、博多電気軌道は本線(西鉄福岡市内線循環線の前身)計画の西半分にあたる博多駅前-住吉神社前-天神町-取引所前間で開通した。 これにより福博電気軌道と交差する天神町交差点が誕生し、天神町電停が設けられた。福博側も交差点の西側にあった高女前電停を廃して、交差点に天神町電停を設置し二つの軌道の乗り換え地点となった。天神町交差点の誕生が、現在に至る天神地区発展の大きなターニングポイントであったことは、現在の天神地区や渡辺通りの発展を見れば明快である。 與八郎は開業を前に平岡良介ら役員から推されて社長に就任。しかし、開業から2週間後に当時流行していたワイルス氏病という奇病にかかり発熱し、九州帝国大学病院に入院。激務による心労疲労も重なり、発病からわずか2週間後の10月29日に46歳で亡くなった。與八郎の死後、その功績を称えて「渡辺通り」という名称が、彼を慕った人々の手で名付けられたのである。福岡市域の拡大始まる 與八郎の死後、博多電気軌道は推進力を失い、残る計画区間の用地買収が難航したこともあって本線(のち西鉄福岡市内線循環線)の全通は、九州水力電気と合併後の1914(大正3)年4月であった。全通当時、路線の約半分は福岡市域の外側で、民家も乗降客もまばらであった。 1912年10月1日、警固村が福岡市に編入されたが、当時の福岡市は藩政時代からの城下町福岡と商都博多のみの狭いエリアに住宅や商店が密集していた。人口も約8万人と伸び悩み、鹿児島・熊本両市だけでなく、官営八幡製鐡所を擁し急激に躍進する八幡町や三池炭鉱を擁する大牟田町に抜かれる状態であった。 福岡市発展のために市域拡大が必然のなか、博多電気軌道沿線の開発が進んだことで、住吉村・千代村・堅粕村などの周辺村が次々と町へ昇格する。以降大正から昭和初期にかけて、周辺町村は公共インフラ整備などを条件として次々と福岡市に編入され、人口も増加が始まった。與八郎が目指した博多電気軌道の開通は、福岡市が飛躍するきっかけとなったのである。福岡市の市域変遷(『福岡市制施行120周年記念 福岡近代絵巻』より)福岡市の合併と人口推移(『福岡市五十年史』より抜粋・付記まとめ)1889(明治22)年1899(明治32)年1909(明治42)年1912(大正 元)年1915(大正 4)年1918(大正 7)年1919(大正 8)年1922(大正11)年1926(大正15)年1928(昭和 3)年1929(昭和 4)年1933(昭和 8)年1936(昭和11)年(警固村合併)(豊平村合併、初の10万人突破)(鳥飼村合併、再度10万人突破)(西新町、住吉町合併)(八幡村合併)(堅粕村、千代村合併、20万人突破)(原村、樋井川村合併)(姪浜村、席田村、三宅村合併)(30万人突破、博多築港大博覧会、 岩田屋開業)50,847人64,772人80,214人93,517人114,196人97,157人102,818人138,207人156,288人201,965人217,751人276,584人302,068人

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