西日本鉄道株式会社 創立110周年記念誌S
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34第1部 天神発展史鉱山監督署と炭鉱経営者 1870(明治3)年に起こった福岡藩贋札事件の発覚により、藩知事黒田長知は廃藩置県を前に罷免されて有栖川宮熾仁親王が新知事に就任した。福岡の地を離れた長知公を追うように、天神町に居を構えていた旧藩士の多くがこの地を離れた。 屋敷跡には学校などの公共施設に加えて、大名町に鉱山監督署が設置されたことから、筑豊の炭鉱主らが天神町や大名町に邸宅や別邸を構えていった。 現在、福岡富士ビルや福岡PARCOがある一帯は豊国炭鉱などを経営し、玄洋社の初代社長となった平岡浩太郎の邸宅跡である。また、明治通りを挟んで平岡邸の向かいには「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門の別邸「銅御殿」があった。現在、西鉄グランドホテルが建つ場所は「筑豊御三家」のひとつ安川財閥の創始者・安川敬一郎の二男の松本健次郎の別邸跡である。彼らは、いわば天神地区を最初にビジネスの地として活用した人々であった。学問の町 天神町一帯には明治から大正にかけて学校が次々に開校して、文教地区の様相となった。1873(明治6)年、水鏡天満宮東隣に開校した福岡高等小学校は1894年に現在の福岡ビル付近に新築移転、さらに1921(大正10)年には警固神社北側(現在の警固公園)に移転し男女それぞれの高等小学校に分離した。 1885年5月、英和女学校(福岡女学院の前身)が因幡町に開校し、3年後に天神町に新校舎が完成して移転した。同校は1919年に薬院へ移転し天神地区を離れ、戦後さらに現在地(南区曰佐)へ移転している。 1898年6月、福岡高等女学校(県立福岡中央高校の前身)が天神町から因幡町にかけての敷地に開校した。同校は1932(昭和7)年に現在地(中央区平尾)へ校舎を移転し、跡地には1923年4月に開校した福岡県立女子専門学校(福岡女子大学の前身)が須崎裏町(現在の天神5丁目、須崎公園)から1937年に移転している。1945年6月19日、福岡大空襲により県立女専の校舎は焼失し、戦後跡地は新天町となった。銅御殿(提供:益田啓一郎)福岡高等女学校正門(1909年)(提供:益田啓一郎)1885(明治18)年1888(明治21)年1919(大正 8)年因幡町に開校天神町に新校舎完成移転校舎移転(薬院)し福岡女学校と改称1898(明治31)年 6月 6日1901(明治34)年11月20日1908(明治41)年 4月 1日1932(昭和 7)年 3月10日1949(昭和24)年 4月 1日福岡市立福岡高等女学校として認可校舎移転福岡県立福岡高等女学校と改称校舎移転(現在地)福岡県立福岡中央高等学校と改称天神町・因幡町(現・新天町の敷地)県立福岡高等女学校(福岡中央高校の前身)因幡町で開校~天神町へ移転、大正4年の生徒数71人英和女学校(福岡女学院の前身)天神町(水鏡天満宮東側~現・福岡ビルの敷地)~小烏馬場(現・警固公園敷地)大正4年の生徒数1,576人(男999人、女577人)福岡高等小学校(男子・女子)福岡鉱山監督署(1910年)(提供:益田啓一郎)天神地区にあった学校(明治~昭和初期)あかがねごてん
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